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世界は記号でできている。

旅とガジェットと社会学

思いつきで旅に出てみた in 関東甲信越 by 青春18きっぷ episode 3 ~新潟編の前置き~

エッセイ

新潟は私が昔住んでいた土地です。小学3年生までの6年間、幼少期をここで過ごしたということで、今の私の人格形成に大きな影響を及ぼしていることは確かだと言えます。

 

新潟には様々な思い出があります。といっても基本的には遊んでるだけでしたが。様々な断片的な記憶が「思い出」として脳の隅にしまってあり、そのもやもやとした「淡い記憶」は「物語」となって私の脳内で特別な位置を占めています。

 

 

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幼い頃の思い出というのはあまりはっきりとしたものではなく、事実の正確なところも確かでなく、にもかかわらず「重要な出来事」「人生における重大イベント」のような物語として心に在り続けています。

 

それは、自己の認識としては「過去現在未来」という縦に続く一連の流れになっているということであり、「過去のあの出来事があったから今の自分になった」「今の自分の行動がこうだから未来の自分はこうなる」という物語的な認識を少なからずしている部分があるということにつながっています。そしてそれは決して精度の高い現実認識ではなく、場合によっては危険なものであると私は思っています。

 

そう、何も「自分」や「現在」を、過去から未来までの一貫した流れの中で捉える必要はなく、また、「過去」や「未来」というのも、「現在」の上や下に位置づけられるものである必要はないということです。

 

ソーシャルメディアが普及し、「ライフログ」の新たな兆候が現れ始めた中で、人々の日常の情報の全てが「記録」されるようになってきました。Twitterを日常的に利用している人なら、Twilogなどのサービスを利用して過去のツイートを遡り、その日自分はどんな行動をとって、どんなことを考えたのか、可視化された「情報」として一瞬で見ることができます。また、視覚情報についても、Facebookなどにデジタルカメラで撮った写真を上げるなどして、腐敗しない確かな記録として残すことができ、これもいつでも見ることができます。

 

そうすると、私たちは過去を「淡い記憶」として捉えていくことは少なくなってくるのではないかと思います。特に幼い頃の「淡い記憶」というのは、リテラシーがなく、圧倒的に情報量が少ない中だからこそ成り立つものであり、長い時間の経過とともに脳内の情報が取り出しにくくなった結果だと思います。「ライフログ」の技術が極限まで進化していくと、全ての日常の情報(過去の情報)は常に手元にあり、閲覧可能であるため、それらは決してセピア色には染まらず、鮮やかな情報として「現在」とともに在り続け、もはや「懐かしい」とも感じなくなっていくのだと思われます。

 

「淡い記憶」は成立しなくなり、「過去(と未来)」は「現在」と並列に位置づけられ、私たちは自己や現実を、過去から未来までの一貫した「縦の流れ」や、起承転結の「物語」の中で捉えなくなります。私たちはその「縦」ではなく「横」に平等に並べられた情報の中で、差異によって淡々と自己や現実を認識していくことになると思います。

 

いや正直どうなるか本当のところはわかりません。しかし私個人としてはソーシャルメディアを本格的に使い始めて以降、確かな変化が起きているように思います。これまで1年を様々な「イベント」―夏休みや冬休み、クリスマスやお正月など(バレンタインデー?なにそれおいしいの?)―の順番によって認識していたと思うのですが、だんだんとその時間の流れや個々のイベント(タームポイント)を意識しなくなり、刹那的に「現在」だけを意識し、楽しむようになっていきました。

 

やはり私は、人間の脳から「淡い記憶」および過去を美化したような「物語」は消え去り、刹那的な「快楽」の感覚だけが、そのときどきの「祭り」の情報とともに残っていくのだと思います。

 

しかし、そういった変化が起こる(起こっている)として、ソーシャルメディア(ライフログ)の技術が普及したタイミングというものも考えなければならないと思います。今、10代~20代くらいの人がソーシャルメディアの主な担い手になっていると思いますが、この年代の人たちの少年少女時代には当然ながらそんなライフログ技術はありませんでした。幼少時代の「淡い記憶」が残っています。過去のおぼろげな記憶を物語として脳にストックしていると思います。

 

要するに中途半端な状態なのです。中途半端にしか記録できていないのです。だから、完全には過去は現在と並列ではなく、過去が現在の土台として機能している状態です。「過去があるから今がある」の認識を少なからずしています(当然、事実の因果関係などはありますが、自己や「現実」の認識として)。

 

私はこの状態を改善したい。過去に意識を戻して情報を集め直すことはできないけれど、「淡い」視覚描写を今一度現在のリテラシーで捉えなおし、鮮やかな映像と高い情報量を持って「上書き」したい。セピア色の古い映像・画像を修復し、鮮やかな色を持った新たな記憶として上塗りしたい。そうすることで、私は「過去」の相対的な地位を下げ、現在の情報・状態と同列に置き、現実認識の精度を上げることができる。過去を特別なものとして認識しなくなる。

 

 

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そう、だからこの新潟の「思い出巡り」の目的は、淡い思い出を片っ端からぶっ壊していくことにあります。もちろん完全には無理なのですが、視覚情報だけでも上書きしたい。更新したい。

 

さて、そんなわけで新潟に行くという方針は結構前から立てていました。抽象的で遍在的な自己、何にも囚われずどこにでも行ける自己を保つためには幼少時代の「淡い記憶」が非常に邪魔だった。今回突然訪問することになったのはいい機会であるということで。潰すべきものを早めに潰しておくことができそうだ、と。

 

では、自己を作り直すための思い出を壊す作業を始めるとします。

 

(次回へつづく)

 

 

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(余談だが、「記憶」の在り方については「モノ」をぶっ壊すという方針も立てている。私はこれまで記念品・お土産などの「モノ」とともに様々な「思い出」を維持してきたが、これをもうやめることにした。これからの記憶は全て「データ」とともに在り続ける。昔抱いた思いもできる限り文字にしてデータとして保存する。そうして「モノ=物質」の存在意義は失われる。モノなどなくても記憶は、思いはここにある。)